■図書館でたまたま見つけて借りてみました。これはなかなか示唆に富む内容で、広く読まれて欲しい内容ですね。
■イスラム教は単なる宗教ではなくて、社会制度、社会システム全体の指示体系であるということです。コーランに、ちゃんとお金の取り扱いまで明記してあるのだ!なにしろ、7世紀にアラブの行商人ムハンマドがアッラーから言われたことを記されたのが発端だから、いわば商人の宗教なのだ。故に、稼ぐことは強く推奨される善行なのだ。しかも、それって、アッラーと個人の相対契約なので、救われるのは自分自身だけ。一方で喜捨が義務化されていて、税金ではなく、神との契約で、毎年喜捨する。喜捨は利他のためではなく、あくまで利己的行為として認識される。それも、喜捨の税率(?)がコーランに書かれている!もう、この当たりで眼から鱗が数枚落ちました。巨額の喜捨をしても、匿名のほうが徳が高いとアッラーが言っているから、「◯◯記念館」とかはないらしい。カッコいい。
■そもそも経済て、経済だけで経済理論によって動く、作るものではなくて、どんな価値観を共有するのか、どんな世界や社会を作るのか、どう作るのか、そんな哲学や倫理学と根っこで絡みついている。そのことが忘れられて、金融資本主義に迷走してしまった。
■イスラーム経済では、すべてがアッラーありきで設計されていて、利子は悪だからとってはならないから、「無利子銀行」というシステムが工夫された。社会インフラも政府が税金で整備するのではなく、アッラーが言ったから当然作るし、その財源は喜捨をシステム化してお金を回す。このあたりの、単純な資本主義でも共産主義でもない、社会、経済が、現に存在することは新鮮な驚きだった。税金ありきで、国家に税金を渡して仕事をさせるのが当然、それ以外に方法はないように視野が狭窄してしまうけど、もっと自由な制度設計があってもおかしくないわけだ。
■しかも、そうしたことは日本でも昔は割と似たことが行われていて、仏教でも喜捨は当然貧者への施しではなくて、自分が救われるために行われたし、近江商人だって「三方良し」の商売哲学を持っていたし、渋沢栄一は「道徳経済合一」と言った。それが世間なのか神なのか仏なのかはあるけれど、人知を超越する「何か」(倫理観の源泉)の存在を必要なこととして認識していた。それがないと、人間は暴走して、袋小路に迷い込むから。それを経験的に知っていたから。これらが廃れたのは、ひとえに、宗教心の衰退によるだろう。明治維新に国家神道を捏造して、これは宗教ではないと言ったことが、その原因じゃないか。
■資本主義を否定するわけではなくて、資本主義を補填する可能性があるといわれていて、実際、イスラーム経済だけでなく、日本の古い知恵だって、再発掘の可能性があると思うなあ。その際には、哲学とか倫理学とか宗教とかを再認識して、世界観、宇宙観の見直しと共有が必要になるだろうな。これがないために、目先の経済現象しか考えられないし、経済成長原理主義に視野狭窄するのだ。
■イスラエルを武力攻撃したハマスだって、日本では過激なテロ組織といわれるけど、実際の主な仕事はガザ地区の統治機能とイスラーム経済の担い手(社会福祉)だという。まあ、事実上の政府だからね。
■税金を取られる(ホントは間違いだけど)のではなく、神か仏に約束したから喜捨する。その方が、むしろ国民感情的に素直に腑に落ちるのではないか?だって、今現在そうなっているように、政府って、胡散臭くて信用できないから!(ただ、僧侶や寺院への喜捨は、同様に胡散臭いから嫌だね。やっぱり、透明性の高いNPOみたいな制度が望ましい)

