■第1稿は三部構成になっているけど、とにかく長い。その原因はまず、ト書きが詳しすぎる。台詞はそんなに分量がないのだけど、ほとんど小説のようにト書きを書いている。そもそも戯曲はちゃんと台詞本意で書ける人なので、メディアの違いは心得ているはずだけど。もともとはギャラが良いので引き受けた仕事だし、本来精神分析学には批判的だったはずなのに、フロイト研究の回路が動き出すと歯止めがきかず、単なる映画シナリオではなくなった模様。
■それでも、ちゃんと通俗的な劇的な見せ場はきっちり押さえているところが、サルトルの戯作者魂で、ユニークなところ。基本的に芝居心やケレン味が押さえきれない人で、しっかり映画的なシナリオにはなっているのだ。しかも、思想をドラマとして平易に翻案することに長けていて、実存主義思想を知りたければ、サルトルの戯曲をまず読むべきとすら言われるし、実際そのとおりと感じる。だから、フロイトの精神分析思想を知りたければ本作を読めばいいわけだ。
第一部
■第一部は、1885年から1986年の約1年間を描く。ヒステリー症の治療を研究する若きフロイトが、師匠のマイネルト教授とたもとを分かって、ペテン師ともいわれるパリのシャルコ教授のもとで催眠術による施術を学び、帰国して学会発表を行うと、勇んで引きこもりの貴族青年に実施するけど、彼の抑圧の蓋の下から現れたコンプレックスの姿に、フロイトが自らの中の「吸血鬼」を発見して恐怖するまでを描く。
■なにしろ通俗的な見せ場を臆面もなく駆使するのはサルトルの得意技で、終盤のクライマックスは完全に『エクソシスト』とか『死霊館』的な怪奇映画になっている。
フロイト「私たちの意識的な動機は真の動機ではありません。(中略)私の知らない、あるいは私の知りたくない、もっと深い恐怖があるのです・・・」(S12)
とか、しまいには
マイネルト「ほらみたまえ!君は他人のなかに隠れている怪物を狩り出そうとする。だが、君が発見するのは君自身の吸血鬼なのだよ」(S17)
とかつての師匠のマイネルトから予言されるから、ひたすら痺れる。劇的には完全にゴシック・ホラー仕立てなのだ。
第二部
■師匠のマイネルト教授は不本意な人生を終わろうとしている。彼もまたヒステリー症状を隠していたのだ。フロイトは敬愛するブロイアー医師の催眠療法に関わるうち、ブロイアーと女性患者セシリーの疑似恋愛関係を感知するが、彼女はついに想像妊娠する。一方、悪魔じみた耳鼻咽喉科医師のフリースが登場し、ヒステリー症状のすべての原因は性にあるとの発見を共有すると、密約を交わす。
■ブロイアー医師と女性患者の疑似恋愛関係とその暴露をメロドラマ的に描くあたりは、通俗的に面白しいし、なぜか徹底的に悪魔的に描かれるフリース医師の捉え方に、サルトルの悪意が感じられる。なにしろ、第二部の終幕は、以下のように締めくくられる。
フリース「今日、一八九二年七月十三日、ウィーンの橋の上に二人の男がいる。この二人の男だけが、<自然>の秘密を知っている。性が世界を動かしている、と」
そして、最終的にこんなことを言い出す。まさに悪魔主義を描くオカルト映画なのだ。いいのか、それで?面白すぎるけど、第三部でちゃんと回収できるのだろうかと心配になる。
フリース「十年たったら、私たちは人間たちを支配できるようになるでしょう」
第三部
■女性患者セシリーとの関わりの中で、催眠療法による治療の過ちに気づくと、夢分析の手法に切り替える。その中で、患者のヒステリー症状は、幼年期の父親からの性的虐待ではなく、子どもの側のエディプスコンプレックスと呼ばれる心理機制が、その神経症の根底にあると考えるに至る。それは同時に、フロイト自身の父親に対するコンプレックスを解き明かすことであった。彼は代理の父を求めて青春時代を彷徨ってきたことを自覚する。不遇な人生を生きた実の父が亡くなり、精神分析は数理科学じゃないと喝破するフリースと袂を分かち、ブロイアー医師とは和解しつつも、代理父の役割を追えたことを認識して、別れる。つまりそれは、自らの青春時代に対する決別であって、彼は大人になりきれなかった自分にさよならするのだった。
■第一部の終盤とか、第三部の終盤にサルトルの劇作家としての通俗性というか芝居心が強烈に出ていて、面白くて仕方ない。第一部あたりは、まだゴシック風味が濃厚だったけど、最終的にケルトナー家の錯綜した心理的コンプレックスを謎解きすることで、ケルトナー夫人の思わぬ出自が暴露されるという、えげつない(面白い)メロドラマが仕組まれるから、呆気にとられる。面白すぎですよ、サルトルさん!
■最終盤には、フロイトは平易な飾らぬ言葉で、以下のように述懐する。
フロイト「そうなんです。僕は自分が恐かったんです。僕は大人になることを拒否していたのです。真実を見ることを拒否していたのです。(中略)あなた方はみんな僕を魅了していましたが、僕はあなたのなかにいる僕の父を殺したかったんです」
そして、心の父であったブロイアーに別れを告げる。父のもとから自立するために。
フロイト「(前略)今や、父は僕です。ブロイアーさん、僕は、自分を見失い、自分を見出すための手段としてあなたを用いました。僕を許してくださいますか?」
■最終的に、青年サルトル(嫁も子もあるのに!)が自分の青春の終わりを探し当てるという、立派な青春ドラマになっているところがユニークで、これはジョン・ヒューストンとの当初の打ち合わせどおりだけど、ゴシック風味に始まりながら、最終的には非常に爽やかに終わる。単純に凄い作劇だなあと感じた。終盤あたりの抒情味は、正直、サルトルの中身は日本人か?と思ったぞ。その意味では、第二部でフィーチャーされるフリースの扱いが中途半端で、やや消化不良だと感じたな。
総括
■結局、1962年に公開された映画『フロイド 隠された欲望』は、この構想、構成を下敷きにしつつも、別途書き下ろされ、それでも2時間半の大作となったらしい。映画ではどうもフリース医師のくだりは割愛されたようだ。上記の事情から、これは合理的な判断かもしれない。なぜか日本ではソフトが出ていないけど、何か支障があるのだろうか。幼児性欲とか扱っているから、いまどきのコンプライアンス的な問題?でも、これはぜひ観てみたい。本国でも決して評判は悪くないようなのだ。NHKなら演ってくれそうな気がするけど、どうかなあ。
■サルトルは小説や思想書よりも、戯曲が面白いんだよと教えてくれたのは、脚本家の桂千穂なので、ほんとに有意義ないいアドバイスだったなあと感謝したい気分です。

