【戯曲レビュー】鏡=眼=他人。えげつなくて面白い、サルトル作『出口なし』(伊吹武彦訳)

■サルトルの戯曲がいまだに上演される人気演目だということは最近知ったところで、代表作がこの『出口なし』という1944年に書かれた戯曲。「地獄とは他人のことだ」の台詞が有名らしい。他にも、「人間の望んだことを決めるのはただ行いだけよ」とか、実存主義の絵解きになっている。

■ただし、これはありきたりな他人との人間関係が人間の悩みの殆どだとか、他人の目が気になってストレスを感じるとか、そういった心理的現象レベルの話ではなくて、当然ながら哲学的な人間の自己認識の話だろう。サルトルの思想では「他者論」として有名で、本作のその思想にもとづいた代表作といわれる。けど、そんな思想性の難解さがないところが劇作家として凄い。

■鏡がなければ、人間は自分を規律することができるのか。自分自身をどう認識するのか。できるのか。そこに「鬼」はいるけど、「神」を持ち出さないところがサルトルらしい(それが実存主義!)けど、要はそういうことで、鏡はないけれど、他人の眼があるという展開が面白いところ。見る、見られるの関係性において、それは象徴的なものでもあるけど、むしろ生物学的な器官としての眼球、目玉がイメージされる。それを舞台で台詞で取り上げるところは、正直なかなか大胆で、映画でやったほうが、むしろわかりやすい。

■鏡(あるいは鑑?)なくして人間は立ち行かないけど、それは他者からの視線(監視、批判、他責等々)であり、自分の視線の反射(自責、後悔等々)であり、出口のない檻である。それをサルトルは地獄と形容して、地獄の小部屋を想像した。見る主体(主体性)から見られる客体(他者性)への逆転を地獄と表現したのだろうけど、まだ、思想的には浅いと思うな。まだまだお若い。他者化されることで生まれる自己、新たな主体性という回路があるはずだよね。

■一方で、三人の登場人物が背負った現世での苦しみが、たいがい性的な(しかもえげつない残酷な)事件なのは、おフランスだからなのか、サルトルの実存がそうさせるのか。そこが通俗な面白みになっているから侮れない。『恭しき娼婦』もそうだけど。

■サルトルの思想的には、性的営みの主体性と他者性の逆転が大きなモチーフになっているので、戯曲にも必ず登場する要素となっているわけらしいけど、確かに、そうした作劇は後年いろんなところ、特に映画に影響を残したのではないかな。ヌーヴェルヴァーグ派がその代表だろうけど、ヒッチコックの『めまい』とかもそうかな?日活ロマンポルノは大きな影響を受けたに違いないと睨んでいるけど。

■ちなみに、サルトルはジョン・ヒューストンの映画『フロイド 隠された欲望』のシナリオも書いているけど、長すぎて大幅に改変された。第1稿は、7時間くらいの尺だったらしい。戯曲を読むと、映画のシナリオを依頼したくなる気持ちもよくわかって、ちゃんと通俗な芝居心を心得ているので、セックス絡みの娯楽映画になるよねという計算だったのだろう。製作者がちゃんと尺について打ち合わせできていなかったのがまずかった、あるいは監督とサルトルに任せていた?のが悪かったのだろうと想像する。なにしろ戯曲は非常にコンパクトに纏まっているからね。しかも、初期稿が、ちゃんと本になってますよ。これは必読だな。

■サルトルは「人間は投げ出された状況の中で、どう振る舞うかによってのみ定義される」と言っていて、行動主義心理学にも通じるものだし、だいたいそのとおりなのだけど、これって、実は映画やドラマの作劇の基本でもあって、故に戯曲がお上手なわけですね。実存主義、おもろいなあ。

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