懐かしい!加藤陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を再読

■相当昔に一度読んだ本だけど、戦争の目的は相手国の憲法に対する攻撃だという一節だけよく憶えていたものの、ほかはあまりピンときていなかったところ、最近近現代史の本をいくつか読んで、再読するとやっと理解が追いついた。ただ、高校生向けの講義記録ということなので、思索の深みとか、理論展開の醍醐味とか、そういった面白みは少なくて、そういうのは評論家の加藤典洋を読んどけということ。

膨大な戦死者は社会契約の再考を要求する

■膨大な人数の犠牲者が出た後には、国家には新たな社会契約、つまり憲法が必要となる。それは普遍的な原理だと。国家が危機的な状況になると、国家の意義を規定する社会契約が目覚めて、改めて市民に意識されてくるわけですね。

日本人は関東大震災に、総力戦の酷さを思った?

■日本は第一次大戦では大きな犠牲を被らなかったけど、国家改造論が盛り上がるのは、総力戦による欧州の惨状を見たからというよりも、関東大震災を経験して、そこに総力戦の惨禍を重ね見たのではないかとの指摘は面白いですね。心理的には確かにあったかもしれない。いまなら、戦争の惨禍はリアルに映像媒体によって知ることができるけど。

お上の決めることに過ちはないのだ?だって神だから!

満州事変のあとに、熱河作戦というのがあって、満州事変は戦争ではないと国際社会に主張している最中に、軍隊を進撃させているので、なんとなく許可したけど、よく考えると国際連盟規約に明確に抵触していて、戦争認定されかねないので、これはまずいと気づいた斎藤首相が天皇に作戦中止を上奏しようとするが、という顛末も興味深い。天皇自身も取り消そうかなあと悩むことになるけど、いちど許可した奉勅命令を取り消せば天皇の権威が失墜するし、重臣たちもクーデターで命を狙われかねないので、やめとこうとなる。

■特に明治憲法下では、一度国が決めた大方針は変更できないわけですね。天皇は(建前上)現人神だから無謬なので。でも、一方で神は何の説明もなく、方針を変えたりしても、何の責任も負わない(絶対性=恣意性)という考えかた(神学界隈)もあって、何しろ神のすることなので、人間の計り知るところではなく、神のすることは無条件に受け入れるしかないのだ、それが神なのだという思想もありうる。というか、現に欧州にはあった。

■であれば、何の説明もせず、恣意的に方針変更すればできるはず(現にトランプ氏はそうしてる!奴は神のつもりだったのか)だけど、立憲君主制の場合、法支配の原理が入ってくるから、そこまでの無謬性、恣意性は想定されていないだろう。でも実際はお上のやること、決めることに間違いはないのだという思想(建前)が、敗戦後の今に至るまで生きていて、大いに国民を困らせているから、日本人のメンタリティの根幹に関わる宿痾なのだ。なんでそうなるかといえば、お上=神が(恣意的に)なすことゆえに絶対で無謬だったわけ。少なくとも戦後は違うのに。

■一部、駒村圭吾著『主権者を疑う』で知ったことも混ざってきた気がするけど、改めて読み直すと、理解が深まった気がする(当社比)。

金で人間を誘導しようとするのはゲスな発想では?

■「乳と蜜の流れる地」と言われた満州は、実際には農業には適さない地だったのに、開拓団を無理やり移住させる(分村移民)ために政府が取った政策は、地域への特別助成金だったというあたりも、今に至るまで同じ考えかたが踏襲されており、なんだか背筋がゾッとします。

■確かに、国の政策はお金(予算)によってコントロールするしかないんだけど、よくよく考えると、そんなアメで人間の行動を操る、誘導する考えかた自体が、非常に浅ましいなあと悲しくなってきた。行動経済学の成果なんかもそんな使われ方をするんだけど、なんだか筋が悪い気がしてきたなあ。

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