感想
■約88分の映画なんだけど、とにかく事件が多いので、事件主体の展開となっていて、ドラマ性は薄い。そこが弱点であるのは間違いない。主要な人間関係はホントに設定紹介で、ピンポイントの描写しかない。必要最低限度しかない。まあ、そこは全体構成のバランスを考えれば、それで良いのだともいえる気はする。特に、河内桃子と白川由美は気の毒なほどで、女子が二人要るか?という話。だけど女性の気の毒な扱い、雑な扱い、「産む機械」としての母性というのが、ある意味でミステリアン側のテーマになっている気もするけど。このあたりは封切り当時から批評家からは指摘されていた。でも、フェミニズムの視点ではなく、子ども向け映画になんでな生々しい性的な問題が唐突に登場するのかという違和感の表明だった。
■ミステリアンを滅びゆく種族として描き、その末路に滅亡に対するロマンを見出すのは、潤色の香山滋の持ち味だろうし、滅亡を回避するためになりふりかまわず必死の挑戦(生殖)を試みるというプロットは『獣人雪男』の未使用設定にも共通している。もちろん、香山滋は煽情的な趣向として設定しているのではなく、あくまでマクロな視点から真剣に考えている。
■でも、同様の問題は古くから「農村の嫁不足」問題として、社会問題だった。じっさい映画では、ミステリアンの先遣隊は盆踊りの夜に花嫁候補の目星をつけるという、ほとんど夜這いの風習みたいな振る舞いをしているから、妙に土着的な映画なのだし、未来的なSF映画のはずなのに、なんでそこだけ妙に因習的で古臭いのか?と批判にされたし、実際、そこはどうしても違和感を感じる。脚本の木村武もまだ原案をさばく段階で、自分の持ち味が十分に出ていないけど、後年なら性的な問題よりも、経済的な問題(お金の問題)を打ち出していただろうな。
■この頃の本多演出はまだ円熟の域には達しておらず、特に役者の演技の誘導がまだ馴染んでいない。ただ、この時代の日本映画では、台詞に対するリアクションは心理的なリアルな演技を求めるのではなく、視線を落とすとか、なんとなくうつむくといった形式的な演技で対応するパターンが一般的で、結構なベテラン俳優にも、やらせている例がある。本作でも頻繁に見られ、特に佐原健二とか河内桃子には頻繁にやらせている。それなりのベテランなら、なんとなく考えてニュアンスを創るけど、何しろ若手なので、言われるままにやってしまう。このあたりは、後年の本多作品では、役者もうまくなるし、演技パターンもさすがに古びてくるので、むやみに使用しなくなる。役者陣も上達するし、本多監督の演出も円熟するしで、やはり1965年前後は完成度が高いよね。
■一方で、物量作戦はこの時代のメリットで、やはり壮観。小泉一がキャメラマンとなって、それまでのリアル寄りから、ゴージャス志向になった気がする。特に照明効果は「明るく楽しい東宝映画」の王道路線だろう。『空の大怪獣 ラドン』なんて、びっくりするくらいリアル志向の照明だったからなあ。とにかく東宝特撮の豪華絢爛路線の始まりで、景気がいいよなあ。(次の『美女と液体人間』の撮影もリッチでエロチックなノワール路線で、実に良い調子なのだけど)
■そうそう、ちょっと残念なのは、色彩映画の出始めなので、発色が弱いところ。独特のくすんだ色調は逆に独特の古びたニュアンス生んでいておもしろいんだけど、緑の発色が妙に暗いのは謎。いくらなんでも枯れ木に見える。特にミニチュアセットの木々がくすみ過ぎで、違和感を感じるところだ。本編撮影が秋口に入り、ロケ風景の木々に生気がないだろうから、ミニチュアセットも発色を抑えたとか?

