■小幡小平次ものの新解釈で、有名な芝居の『生きている小平次』は小平次と太九郎の場面から始まるが、本作は、芝居一座の長である小左衛門(神田隆)からいかにして小平次(中村扇雀)がおつか(岡田茉莉子)を受け継いだかが前半で描かれる。要は、小左衛門が酷い夫で、金のために座元(竜崎一郎)に女房を売ろうとしたので、見かねた小平次は師匠を殺害して、おつかと逃げ落ちることになる。後半は、その顛末を見ていた太九郎におつかを渡すように脅され、小平次は殺害される。
■ラストシーンは名作戯曲の『生きている小平次』のラストを引用しているけど、ストーリーラインは戯曲からは離れていて、前半は小平次が小左衛門の亡霊に責められる。ところが後半では、その小平次自身が亡霊となってしまうので、小左衛門の亡霊の件はどこかに吹っ飛んでしまう。そこがこの作劇のユニークなところで、まるで幽霊を見たものは、自分じしんも幽霊になっていまう、つまりは幽霊は伝染するという意味に見えてしまう。脚本家がどこまで意識したかは不明だが、これはちょっと斬新なアイディアだ。
■そもそも、小平次ものって、幽霊なのかゾンビなのか曖昧模糊として作劇されていて、演出的にはいろんな解釈を許す作りになっているけど、その緩さを逆手に取って(?)吸血鬼のように幽霊が伝染するとは、まるで黒沢清なみの飛躍した着想だ。
■しかもおつかは岡田茉莉子だし、小平次は映画でも演じた中村扇雀(後の人間国宝)だし、歌舞伎座テレビ室の地の利を生かした贅沢な配役。問題の雨の古沼はロケによるけど、これが京都映画なら、絶対セットを組んだはず。でも、技術パートは意外とできが良いことを認識しました。
■ちなみに、有名な戯曲の『生きている小平次』ではおつかは太九郎の女房になっていて、小平次が横恋慕するけど、河竹黙阿弥の原作による歌舞伎座テレビ室版二作は、小平次の女房になっていて、太九郎が横恋慕する。差別化を図るために、そうしたのだろうな。