基本情報
ゴジラ✕メガギラス G消滅作戦 ★★★★
2000年 スコープサイズ 106分 @アマプラ
製作:富山省吾 脚本:柏原寛司、三村渉 撮影:岸本正広 照明:斉藤薫 美術:瀬下幸治 音楽:大島ミチル 特殊技術:鈴木健二 監督:手塚昌明
感想
■こういう古風な娯楽活劇は、今どきどころか封切り時から辻褄あわない問題で様々な批判を浴びてきたところだが、個人的にはそこはあまり気にならないので、非常に楽しい一作。ミレニアムシリーズは結構毎回趣向が変わるので、楽しい。それに比べると平成シリーズは無理やり話を続けてしまうから後半非常にきつかったね。。。
■2度のゴジラの襲来で原子力の永久放棄を決めた日本は、エネルギー危機を解消するため核融合によるプラズマエネルギーによる発電システムを開発するが、1996年にまたしてもゴジラの襲撃を受けると、この革新的技術も封印を余儀なくされる。だが、2000年にゴジラはまた東京に上陸する。東京に何があるのか?何がゴジラを引き寄せるのか?
■人類が、あるいは日本人が自身で制御しかねる巨大なエネルギー持とうとする時、ゴジラは上陸し、その傲慢を叩き潰して去ってゆく。人間は(日本人は?)分相応に地表で細々と生きておればいいのだ。省エネ上等、贅沢は敵だ!?本作では原子炉発電よりはクリーンで危険性も低いはずのプラズマエネルギーも許してはくれなかったので、カーボン・ニュートラルの成否は、ゴジラの判断次第ということだな。再生エネくらいしか許して貰えそうにないよね。
■この時期のゴジラシリーズはデジタル合成技術を積極的に導入して、伝統的なオプチカル合成に置き換わってゆく時期なのだが、その技術、特にフィルムスキャンの精度が十全ではなく、とにかく解像度と色調の劣化が顕著。昔のゴジラシリーズはネガフィルムのデジタル・リマスターによって、見違えるほど精細で、色調もこってりと彫りの深いルックが蘇るが、この時期のルックは使用フィルムや照明設計の性格もあり、色調も浅くて冴えず、解像度も甘いのでリマスターしても、あまり代わり映えしない。それでも封切り当時の旧式劇場の照度不足気味の上映に比べれば、まだマシと言える。シネコンが普及する前の、旧来型の映画館ではスクリーンが巨大なこともあり、高感度フィルムを使用して、少ない照明で柔らかいルックを基調とした当時の日本映画は、だいたい照度不足気味で、薄暗かったのだ。
■どうもお話の骨格やアイディア出しは、東宝が用意していた『日本沈没』のリメイク企画に関与していた若手陣?によるものらしく、それを柏原寛司がメインとして活劇に仕立て上げたのだろう。(SF的なギミックに関しては、三村渉の担当だったとも言われる。)そもそも手塚昌明が活劇志向の強い人らしいので、そういう座組になったのだろう。本作はそのマッチングが非常にうまくいった。伊武雅刀というわかりやすい悪役を据えることで、クライマックスのカタルシスを明確に演出する。だから本作の劇的なクライマックスはゴジラではなく、田中美里✕伊武雅刀にあり、「すべては国益のためだ。」「みんな無駄死にじゃない!」とピークに達したあと、ブラックホール砲の誘導作戦に弾みをつける。大島ミチルの派手に歌う心躍る楽曲がほとんど演出の範疇に踏み込むくらいのメリハリを生み出すし、編集の流れだって音楽主導に見えるほどだ。
■地上ではのそのそ動いてるわりに、地面の下に隠れる逃げ足は超速いというゴジラくんのお茶目なキャラは、鈴木健二の特撮演出によって一層際立つ。この時期の鈴木健二の軽妙なミニチュア特撮と、頭の固いマニアの意表を突くコミカル演出は、ホントにユニークなので、もっと再評価してあげて!