全交流電源喪失、東日本壊滅の危機迫る!最悪の危機回避は偶然によってもたらされた奇跡なのか?『Fukushima50』

基本情報

Fukushima50 ★★★
2020 スコープサイズ 122分 @アマプラ
原作:門田隆将 脚本:前川洋一 撮影:江原祥二 照明:杉本崇 美術:瀬下幸治 音楽:岩代太郎 特撮・VFX監督:三池敏夫 監督:若松節朗

感想

東日本大震災津波被害で全交流電源喪失状態となった福島第一原発の現場で何が起こっていたのかを再現する実録映画。主な舞台は吉田所長が非常事態対応に当たる免震重要棟の緊対と、伊崎当直長が現場対応に当たる中央制御室(中操)の二箇所。原子力災害対策特別措置法第 10 条第1項の規定に基づく特定事象を宣言するという前代未聞の事象の、絶対にあってはならない非常事態の中で、最悪の場合、東日本がすべてが放射能汚染される危機をいかに回避したのか、あるいはそれは人知の及ぶところではなかったのか、を描く。

■想定外のSBO状態のなか、炉心溶融を避けるべく必死のベント作業が行われ、それでも1号機、3号機が水素爆発を起こし、停電で計器のパラメーターさえ確認できない状態で、車のバッテリーを外して接続して、炉心の状態を示すパラメーターを読むというふうに、現場作業は手探りで行われる。冷却水を入れるべく期待した消防車は瓦礫で動けず、東電本店が手配した電源車は役に立たない。

■現場(中操)で命がけの事故対応にあたる地元高校出身の叩き上げの職人たちに対して、東電本店のエリート(たぶん東大出身)は政府に忖度して対応がぶれ続ける。吉田所長はテレビ会議でその都度ブチ切れるのだが、実際、事故の終息後に胃がんで他界しているから、これは放射線被爆の影響というよりも、東電本店対応や政治家対応のストレスの方が悪影響を及ぼしているだろう。東日本が壊滅することを覚悟するという、あれだけの極限状態の中で判断を出し続けることのできる人間はありえないと思う。人間のできることの限界を超えたストレスから、がん細胞の侵食が始まるのは、ある意味当然のことだと感じるし、その意味では、まさに労災事件ではないか?

■正直言って、もっと面白くなりうる素材で、特に政府や東電本店の描きかたに深みがない。特に佐野史郎の首相は、ある意味ステロタイプの極みで、本来ならもっとニュアンスを含んだ演技が得意な人なのに、まるで東映映画的な単純な悪役となっている。加えて、自衛隊讃美も露骨だし、米軍の描写も撮ってつけたような紙芝居で、自衛隊ありがとう、米軍ありがとうで映画を締めくくるのはさすがに、具合が悪い。

■でも、2号機が壊滅的なメルトダウンを免れ、東日本が辛うじて救われた理由はもっぱら偶発的なもので、人智による制御が効いたためではなかったというあたりは、事実そうだとはいえ、映画としても重要な部分だ。渡辺謙が、これまたステロタイプに人間の奢りだと総括するのはいかがなものかと思うが、2号炉の超シリアスな事態は、よりによって偶然によって回避されたのだ。コロナ禍に翻弄されているとはいえ、東日本は機能しており、東京も健在な今現在の日本の姿は、実は偶然の賜物に過ぎなかったのだ。

■メインの技術スタッフは京都の松竹・東映チームでいまや大作専門部隊、美術は東宝という最高の豪華スタッフで、特撮は三池敏夫がミニチュア撮影と白組のCGを実にええ塩梅に差配する。ミニチュア撮影や素材撮影には高橋義仁(撮影)とか稲付正人(美術)が呼ばれているので万全ですね。本編撮影は意外にもフィックスと移動がメインで、グラグラする手持ち撮影は最小限。ハリウッドなら絶対に全カット手持ちでいくところでしょうね。そのおかげで、実に見やすくなっているし、一方で中操の停電下の陰影を生かした映像設計も、実に親切設計で、役者の表情はちゃんと読み取れるようになっている。さすが東映京都の照明職人。

■配役では地元出身で叩き上げの原発職人を演じる火野正平が一番の儲け役で、自身のキャリアの生きた渋い演技で意外にも適材適所の配役。そして、佐藤浩市の娘役で何気なく吉岡里帆が登場するのも見どころで、たぶん本人的には手弁当でもいいから出してよというところだろう。

■残念ながら相当に政治的に偏向した映画であることは確かなので、『太陽の蓋』とあわせて観ることをオススメします。でも、両者の違いは政治的なスタンスによるもので、東日本(だけ?)が抱え込んだ危機そのものの実相は同じものであることがわかるはずです。『シン・ゴジラ』は滅んだわけではなく、いつ再び活動を始めるかもしれない状態で、東京の中心に佇立しているのだから。東日本(だけ?)を覆う危機の実態はいまも宙吊りのままなのだ。

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