■さらに貴重なのは中野昭慶が登場して千田是也や島田正吾のエピソードを語っている部分で、千田是也は「ゴジラにも出してよ」と言っていたとか。
■昔は東宝特撮映画での千田是也の演技って、俳優座の活動資金稼ぎのためのアルバイトで、いかにもやる気のない演技という印象だったのだが、改めて観直すと、あれは自然主義演技の実験だろうと思い当たる。社会主義リアリズムから発する新劇の重鎮として、ブレヒト研究の大家、演劇界の理論派として、様々な演技メソッドについての研究心がSF特撮映画にビビッドに反応したのではないか。SF映画における演技はいかなるものであるべきか、撮影現場はいかに進行し、役者の演技にいかに影響するのか。舞台では扱えない新奇な素材にはいかなる演技が相応しいのか。そこに理論通りの異化作用は適用できる余地があるのか。といった純粋な探求心が千田是也にそう言わせてたのではないか。単に割のいいアルバイトというのでなくね。単純に舞台では演じいられない役をやってみたいという素朴な興味もあったろう。新劇はそもそも科学的な思考がベースにあるので、本来は舞台でもやりたいけど、できないから最新のSF映画で演技的に実践してみたいという気持ちもあったかもね。
■いっぽう島田正吾は「南の島の原住民の親方をやりたい」と言っていたとか。これも舞台俳優としての素朴な探求心の発露であろう。東宝映画名物の南海の土人の酋長はいろんな専属俳優が演じているけど、いやあれは俺ならこう演じるし、もっと上手く演じられるはずという分析があったのだろう。ああいう一種の際物だってきちんと演じられる演技プランがあるんだよということを実証したいという演技的探求心はさすが大物の貫禄ですね。自分がカッコよく見えることしか考えない大半のチンピラ役者と違って、あらゆる役を演じてみたいという役者魂がそう語らせたのだろう。あるいは『日本沈没』みたいな深刻で堅苦しい映画じゃなく、昔の東宝特撮映画のような気楽な愉しさを演じたいという気分だったかも。