ウルトラの母がいる、悪魔の怪鳥がいる、そして私はどこにいる?地獄の中心で母の愛を悟る!ウルトラマンタロウ「地獄のバードン三部作」

■久しぶりにウルトラマンタロウの第17話『2大怪獣タロウに迫る!』第18話『ゾフィが死んだ!タロウも死んだ!』第19話『ウルトラの母 愛の奇跡!』の三部作を通しで観たら、ご都合主義のようで、変に理の立ったお話で、感慨を新たにした。


■このシリーズはそもそも怪獣の生態を描くことに非常に力点が置かれ、それは初代『ウルトラマン』への原点回帰の意味もあったろうが、タロウならではのユニークな味わいにもなっている。なかでも食うために生きるという野生生物ならではの生存基盤が徹底的に追及されるバードン三部作はその極北といえる。

バードン三部作はなんといっても火山怪鳥バードンの生態描写の徹底ぶりに顎が外れる。とにかく食って食って食いまくる。食葉怪獣ケムジラを残酷に食い荒らしたのを手始めに、旅客機を襲って乗客を全員平らげ、全国の食肉倉庫を襲い、ZATに食料を隠されて飢えると、マンモス団地を急襲し、団地妻や企業戦士の皆様を嬉々として啄む。特に、団地襲撃場面は秀逸で、青木利郎の特撮美術も冴えるし、特撮班の佐藤貞夫キャメラマンの画角の構成力が圧倒的に凄い。なんとなく記憶の中では秀逸な合成カットがあったような気がしていたのだが、実は無くて、カッティングだけで構成した深沢清澄の演出も立派。怪獣襲撃の生々しい恐怖を描きつくしている。

■特殊技術はなぜか大映小林正夫なんだけど、バードンのキャラクターが東宝ラドンを踏襲しつつ、大映のギャオスのキャラクターを混ぜ込んでいることに由来しているのではないかな。ギャオスなら大映系の特撮監督がよかろうと、同時期に大映東京のスタッフを動員して制作していた『ファイヤーマン』から移行する形で参加したものだろう。ZATの鳥もち作戦で皮膚が剥がれて涙を流して痛がる場面なんて、ギャオスのあの名シーンの呼吸そのもの。一方、第17話でのケムジラ戦はいわゆる「怪獣広場」がバレバレの撮り方で、それまでタロウの特撮班は巧妙に避けていたはずなのに、かなり無神経に撮っているのは弱点。
■さて、この三部作で常に舌の上でざらついているのが、光太郎やZATを忌避し続けるタケシ少年の母親(金井由美)の言動である。こどもの頃に観たときから、あの息子を取り巻く世界への無理解ぶりや光太郎たちへの冷淡さに悪寒を感じていたのだが、大人になって観ると、実は三部作の中心人物かもしれないと気付くのだった。

■実は『びっくり!怪獣が降ってきた』とも似た構図が敷かれていて、ここでも三人の母が対比的に描かれているのではないか。聖母たるウルトラの母はその構図の一角だが、その対極にあるものはなんだろうと考えると、あることに気づく。火山怪鳥バードンはメスではなかったかということだ。火口に単為生殖で産卵するために、栄養素を求めて肉類を爆食していたのではないか。つまり、バードンは聖母たるウルトラの母の対極にある地獄の母であると。

■そして、タケシ少年の母は平凡な人間の母として登場する。彼女の言動は非常に感情的で排他的であり、猜疑心に囚われている。でもそれは息子や家族を第一と考え、家族に少しでも害があると感じられる外的な存在を条件反射的に避けようとしているのだ。それは偏狭で浅薄な思考ではあるが、根底にあるのは家族を守りたい、特に子どもを守りたいという、ある種盲目的な愛なのである。

■そして、母性に関して、三人の母はそのあり様を相互に問われることになる。バードンは純粋に生存と繁殖のために残虐行為を行う、天然の悪魔であり、自然の営みそのものである。原始的な母の愛といえるだろう。ウルトラの母は、息子タロウに命をなんども吹き込む聖なる母であり、人間の存在を超越している。その天国と地獄の中間にあって、明らかに中途半端で未熟な、人間的な母としてタケシ少年の母は描かれる。

■その三人の母のドラマに決着をもたらすのが三部作のラストで、ウルトラの母が死んだゾフィを迎えに来る場面だ。タケシ少年の父が「ウルトラの母は、死んだ子どもを連れに来たんだ」と呟く場面で、タケシ少年の母は、死んだ子と対面するウルトラの母の姿に打たれる。そして、理解して自らを恥じる。ゾフィは自分のためでなくウルトラの星のためでもなく、地球人のために戦って死んだことを認識したからだ。ウルトラの母はその戦いを許し、そして子どもを喪って悲しんでいる。わたしは、自分の家族のことしか考えていなかった。光太郎やZATが何のために戦い傷ついてるのか、考えようともしなかった。

■そして母はタケシ少年の盲しいた目にキス(?)すると、タケシ少年の眼に光が戻る。ウルトラの母と同様に、平凡な人間であるはずのタケシ少年の母もまたおなじ母として息子に奇跡を与えるのだ。原始的で利己的な食い荒らす母性は退けられ、無私で利他的な超越的な母性の存在に触れることで平凡な人間の母性が成長を遂げるというドラマがこの「地獄のバードン三部作」の裏テーマ(?)だったのだ。(タケシ少年の眼が見えなくなるという展開は、その母の家族への愛の在り方が盲目的であることに対する気づきの機会として、ひとつの試練として与えられたものかもしれない。母にとっては自分が盲しいるより、その方が辛いことだから。)

■といった三人の母の構図については、気づかない一般の視聴者は特にそのままで見てもらって一向に構いませんよという風情で何気なくドラマの骨組みに組み込まれているのが、田口成光の脚本の侮れないところだが、本来はラストにそうと分かるようにタケシ少年の母に台詞を加えたりするのが普通だし、市川森一とか上原正三なら絶対そうするんだが、敢えてそうしないのが凄いというか、欲が無いというか。でも、演出家ももう少しそこは念を押さないとね!

参考

このムックはなんだかとても評価が高いですね。再販もかかったようなので、この際買っておこう。

オール・ザット・ウルトラマンタロウ (NEKO MOOK)

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