新企画!映画を観ずに批評する!?リメイク版『日本沈没』架空映画批評


 いよいよ週末には「日本沈没」が公開されますが、今回は新企画として、映画を観る前に感想をアップしてしまうという試みです。
 今までに聞こえてきた感想や評判、映画館やテレビで見かけた映像、スタッフのスタイル、嗜好等々を併せて、新しい「日本沈没」はこんな映画に違いないという観測に基づいて感想を書いてみようというものです。
 はたして、映画館鑑賞後にその内容を改める必要があるのか、まったく予想どおりなのか、或いは大きく予想を下回るのか・・・
 架空批評の本文は今夜公開予定です。

 ■ ■ 以下は、まだ見ていない「日本沈没」の感想です ■ ■

 太平洋の深海で進行する地殻変動を観測した小野寺と田所博士は最悪の場合、1年以内に日本列島が海に没することを予測する。それを裏付けるように、北海道と九州で大規模な津波や噴火が相次いで発生、パニックの渦中に叩き込まれた日本人の脱出計画を、政府はやっと本格化するが・・・

 樋口真嗣の念願の企画「日本沈没」のリメイクで、さしあたり「ディープ・インパクト」と「デイ・アフター・トゥモロー」にどこまで迫れるかが問われるのだが、結果的には彼我の差は思いのほか大きかったようだ。

 両作の美点は、地球規模の危機のマクロの視点と家庭劇のミクロの視点を交差させることで、地球規模の災害をドラマとして映画の中に取り込むことに成功しているところで、「デイ・アフター・トゥモロー」は実際はかなり怪しいが、「ディープ・インパクト」はその点で好見本といえる傑作であった。

 主演の二人の配役を見るだけで、緩くて幼稚なメロドラマが盛り込まれていることは想像に難くないが、オリジナルの藤岡弘いしだあゆみをずっと子供っぽくしたような作劇は、正直耐え難い。加藤正人成島出(痴漢事件でクレジット抹消)というそれなりに実績もある正統派ドラマ作家を二人も揃えながら、この有様はどういうことだろうか。樋口真嗣の演出力以前に、脚本の構築段階でプロデューサーに悪い誘導を受けたのではないか。いくらミーハー女子に見てもらわないと大ヒットに繋がらないとはいえ、そこまでバカのふりをする必要があるのか?

 一方、お楽しみの大特撮はというと。今回は神谷誠特技監督ではなく特撮監督として特撮研究所のスタッフを統括してミニチュアワークやロケ撮影(B班?)にあたったが、予想以上にミニチュアワークの規模は小さい。ミニチュア撮影部分も、デジタル合成の映像素材として取り込まれているから、ミニチュア撮りきりのクリアな空気感と質感を味わうことはできない。火山の噴火も遠景にはめ込まれ、ミニチュアセットの豪勢なアップショットは堪能できない。おまけに第二次関東大震災など、予算不足を隠そうとせず、ボリューム的にも緊縮財政が明らかだ。水の表現には、CGIよりもミニチュア撮影による素材が多用されているが、「デイ・アフター・トゥモロー」のシミュレーションによるアニメ表現のリアリティには及ばない。また、水没したビル街の描写は、前作では脚本にはあって映像化されなかったアイディアだが、さして意味があるとは思えない。そこに意味を求めるとすれば、大勢の日本人の遺体が眠っていることをどう描くかという点にテーマを設定する必要があるだろう。

 また、ラストのオリジナルと異なる結末のアイディアは、幻の松竹+大森一樹バージョン以前に東宝でリメイクが企画されていた際にも検討されていたものらしい。

 結局、樋口真嗣は一体何がしたかったのか?という疑問符ばかりが脳裏を過ぎる映画だ。それほどまでに大衆受けが欲しいのか、その理由は何?そのポジションには先に山崎貴が居場所を確保してしまったではないか。樋口真嗣の本領は、大向こうを唸らせるような正攻法の娯楽映画ではなく、あくまでそのヲタク性に立脚した間口の狭い映画にあるのではないか。あるいは、実写映画の範疇を超えた、実写とアニメの融合という方法論の中に、樋口真嗣の才能に相応しい舞台が残されているのではないかという気がするのだが。

 ■ ■ まだ見ていない映画の感想文終わり ■ ■

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