ゴジラ×メカゴジラ

基本情報

ゴジラ×メカゴジラ
2002/CS
(2002/12/14 京都宝塚)
脚本/三村 渉
撮影/岸本正広 照明/望月英
美術/瀬下幸治 音楽/大島ミチル
特殊技術/菊地雄一
監督/手塚昌明

感想(旧HPより転載)

 1954年のゴジラ襲来以降、度重なる巨大生物の出現に対処すべく特生自衛隊が組織された架空の日本において、ゴジラ対策の切り札として開発された三式機龍(メカゴジラ)だが、ゴジラとの初戦において、突如システムが暴走、街を火の海に沈めるのだった。機龍を操縦する自衛官釈由美子)は孤児である自分同様、望まれずに生まれてきた命である機龍に暗い共感を寄せるのだが・・・

 人気の凋落及びハム太郎との二本立て上映という興行形態の煽りを喰って、制作予算が大幅に削減された不遇のゴジラシリーズ最新作だが、金子修介の野心作ではあった前作よりもアクション映画としての醍醐味をストレートに追及した痛快作に仕上がっており、手塚昌明監督の演出手腕の頼もしさを改めて印象づける結果となった。

 何といってもメカゴジラこと三式機龍と自らの生きる場所を勝ち取るためには闘いに勝ち続けるしか方法がないと思い詰めて暗い情念をたぎらせた婦人自衛官との関係性を中心に据えて、ゴジラの存在を脇へ回した脚本構成が大胆ながら一応の成功を示しており、孤独な主人公と機龍への感情移入というこの映画の生命線を的確に確保した手塚昌明の采配の確かさは称賛に値する。

 興行的には惨敗だった「ゴジラ×メガギラス」の雪辱を晴らすためほぼ同様のプロットを敢えてハードな世界観の中で語り直すという手塚監督の企みは上映時間の短さのため言葉足らずの部分も少なくはないが、ゴジラとの因縁の闘いを戦い抜くことでヒロインの頑な心に微かな変化が訪れるという物語を「修羅雪姫」での思い詰めた凛々しい表情が記憶に新しい釈由美子という旬の素材を得て、怪獣映画とアイドル映画の融合という形で実現している。

 怪獣映画でありアクション映画でありアイドル映画でもあるというそれぞれの要素をバランス良く配置してゆく手際の良さは、おそらく一つの目標として措定されたはずの金子修介を凌駕しているかもしれない。少なくともアクション映画としての筋の通し方は明らかに金子修介よりも正統派である。

 特撮演出の見所はクライマックスのゴジラメカゴジラの縦横無尽の一騎打ちの場面で、ゴジラガメラよりも明らかに平成ウルトラマンのアクション演出に準拠した大胆な殺陣が繰り広げられる。この辺りはリアルシミュレーションを意図した手塚監督の志向よりも、特殊技術の菊地雄一の趣味によるものだろうが、佐川和夫を彷彿させるジャイアントスイングの場面などはなかなか痛快で結構。ただし、1/2モデルを使用したデジタル合成では、佐川和夫ならではの撮りきり映像による豪快な力感には及ばないが。

 デジタル合成の精度は「ゴジラ×メガギラス」と「大怪獣総攻撃」の中間辺りに位置すると思われるが、ライドメカの飛行シーンなどは映画版ウルトラシリーズの水準にやっと追いついている。また、機龍の発進シーンなどでの俯瞰カットが充実しており、第9ステージだけを使用して小規模の美術セットで撮影されたとは思えない立体感溢れる特撮演出となっているのも今回の特撮演出の見所で、これも樋口真嗣というよりも佐川和夫や神澤信一ら円谷プロの特撮演出を彷彿させる。

 それにしても、この映画の最大の欠点はゴジラの存在感の薄さにある。アクション場面でも動いているのはもっぱら機龍のほうであり、さらにゴジラの心理描写が全く描けていないために、何のためにゴジラが出現して何に傷ついて海に帰っていくのかが全く表現できていないのは困ったことである。

 ちなみに、手塚昌明を「ゴジラ×メガギラス」で監督デビューさせ、菊地雄一を特殊技術で一本立ちさせた富山省吾プロデューサーの近年の目利きぶりはちょっと凄いのではないか?

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