『怪談累が渕』

基本情報

怪談累が渕
1970/CS
(2002/7/13 V)
脚本/浅井昭三郎
撮影/牧浦地志 照明/中岡源権
美術/内藤 昭 音楽/鏑木 創
監督/安田公義

感想(旧HPより転載)

 借金の督促に来た按摩(石山健二郎)に利子代わりに妻をあてがい、不義の罪で二人を惨殺した貧乏旗本(伊達三郎)は彼らの亡霊に取り殺されるが、その息子新五郎(石山律)はそうと知らぬ間に、按摩の娘で父親の隠し金を奪って自分の勤める店を買い取ったお志賀(北島マヤ)と懇ろな仲に。ある日夜鷹に身をやつしたかつての父親の妾おくま(笠原玲子)から罵倒されのに逆上してこれを殴り殺し、逃げ込んだ地獄宿で抱いた女郎は、お志賀の妹であった。新五郎の素性を知った彼女は自殺してしまう。さらに、元の雇い主から顔面に熱湯を浴びせられたお志賀は、新五郎がお志賀の雇い人お久(水上竜子)とも関係を持ったことを知り・・・

 1960年にも同じ題材を映画化した安田公義が再び”累が渕”に取り組んだものだが、もともとの作品自体が成功作とはいいがたく、この作品についてもウェルメイドなプログラム・ピクチャーには至っていない。

 中川信夫の傑作「怪談かさねが渕」と比較すれば、失敗の原因が脚本にあったことは誰の目にも明白で、秘録シリーズの何作かで良心的な仕事をした浅井昭三郎だが、ここでは作者の狙いが最後まで曖昧なまま終始してしまう。特に主人公新五郎のキャラクターが全く描き込まれておらず、行動原理もなにもあったものではなく、欲望のおもむくままに悪を重ねるピカレスクな人物でもなく、金と色に振り回される小心者でもないという、全く存在意義不明な主人公になってしまった。そのうえに、途中までは拝金主義の小気味よい悪役であったお志賀まで肝心の後半で存在感が希薄になってゆく構成の拙さで、全く一貫性のない脚本となっている。

 ただ、そうした条件のなかでも、主人公に絡む小悪党二人連れをおそらく大魔神での功労によって橋本力が抜擢され、山本一郎とともに小さな活気を導き入れているし、何よりも映像表現としての様式性はほとんど完璧といっても過言ではないほどの完成度の高さを示しており、思い切った暗さで統一した照明設計も意欲的で、この時期の牧浦地志の仕事にハズレがなかったことをうかがわせる。

 特に素晴らしいのは、おくまに口汚く罵倒された主人公が仲間の夜鷹たちが遠巻きにする中で、土砂降りの雨の中おくまをどぶに叩き込んで石で頭を叩き割る凄惨な殺し場の場面で、デビュー当時は清純な娘役だったはずの笠原玲子の熱演が大映京都の質感溢れる舞台装置のなかで最高潮に達したとき、画面全体に殺気が沸騰し、石山律ならずとも女殺しに走らざるを得ない切羽詰まった状況を現出させて見せる演出と、撮影以下のスタッフワークの突出した仕事ぶりには感動する。

 伊達三郎が自堕落な貧乏旗本をいつもながらの憎々しい馬面で演じきる冒頭の宅悦殺しの場面も演出的にはソツが無く、ここでも欲求不満と夫に対する憎しみで懊悩する奥方を暗い室内に淡い背光で浮かび上がらせた映像設計による心理描写が抜群の冴えを見せて、牧浦地志の仕事はここでも圧倒的に凄い。

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