アンドロメダ星人にはなれなかったよ…昭和元禄のニッポンに特攻する、10歳男子の孤独な戦争!『少年』

出典:https://movies.yahoo.co.jp/movie/142948/

基本情報

少年 ★★★☆
1969 スコープサイズ 分 @アマゾンプライム・ビデオ
脚本:田村孟 撮影:吉岡康弘、仙元誠三 美術:戸田重昌 音楽:林光 監督:大島渚

感想

■これまでツイッターで何度も呟いているのだが、田村孟のシナリオは間違いなく傑作だ。そのことはこれまでに数々の名作シナリオ集成に収録されているから、業界でも定説である。しかし、そのシナリオを先に読んでしまったのがいけなかった。大島渚による完成品の映画には、シナリオを読んだときほどの感動はなかったからだ。

■そもそもシナリオの概要は、創造社グループのディスカッションで練られたらしいが、このシナリオは実際に起った当たり屋事件を忠実に追ったもので、シナリオの表現上は他の要素(演出の工夫等)は考慮されていない。極めてシンプルな内容かつ書きぶりである。特に大島渚に当てて書いた雰囲気もなく、実に開かれたシナリオである。しかしそこに、大島渚の演出によって、何故か天皇制の問題が上書きされる。

■完成した映画を観ると、当時から今に至るまで日本の基幹製品である自動車に体当りする犯罪は、まるで戦時中の特攻作戦のように見えるし、その対象は単に自動車ではなく昭和元禄に湧く経済成長を享受する当時の日本そのものだ。つまり渡辺文雄演じるダメおやじが背負っている戦争の亡霊は、少年や継母を新たな戦争に駆り立てるのだ。そして、戦場に駆り出された兵士が最初に殺した敵兵の姿に否応なしに罪の意識を喚起されるのと同じように、北海道で起こった無垢な少女の死が、少年に耐え難い罪の意識を植え付ける。

■その意味でこの映画は昭和44年における「現代の戦争」映画であり、大島渚はそうした社会性において少年のドラマを再構築している。でもシナリオを素直に読めば、そこにはそもそも日の丸の指定なんてなくて、政治的な映画ではなく、あくまで叙情的な青春映画、家族映画なのだ。大島渚は創造社を構えたときから(?)、ありきたりの青春映画を素直に撮ることは許されない体になってしまったのだ。

■だから、このシナリオに素直に感応したのは当時子供向けテレビ映画を量産していた佐々木守で、インタビューでも「これが本当にいい脚本で大傑作」と述べているし、創造社グループの若手としては先輩の単独脚本に嫉妬したに違いないのだ。

■親に命じられて犯罪に手を染める少年は、アンドロメダ星雲から来た宇宙人になりたいと願う。自動車はぶつかれば車のほうが壊れるし、涙は流さない。宇宙人には、もともと泪なんてないからだ。そんな正義の宇宙人になりたいと願いながら、親に命じられ、親のために、罪を重ねる少年。前の戦争の亡霊に新しい戦争を強制される10歳の少年兵だ。北海道の少女の事故死は、宇宙人にもなれず、自分で死ぬこともできない、人間のこどもである自分を否応なく突きつける。アンドロメダ星雲の宇宙人に関する少年の会話には、明らかにウルトラマンの姿が仮託されていて、佐々木守も参加した円谷プロの子ども向けテレビ映画が意識されている。

■そして特撮好きなら気づくはずだ。宇宙人に見立てた雪だるまを体当りして崩そうとする少年のスローモーションが、あるイメージを換気することに。それは特撮番組で、高速度撮影によって捉えられた、怪獣が石膏ビルを叩き潰す場面にそっくりな映像であることだ。正義の宇宙人になりたいと願った少年は、自分がむしろ退治されるべき怪獣であることを、決定的に自覚させられるのだ。もちろん、田村孟大島渚もそこまでの意図はなかったはずだが、奇跡的に特撮テレビ映画との共鳴を果たしてしまったのだ。シナリオの#87の終盤は以下のように書かれている。まさに、円谷プロ特撮の典型的な特撮場面を描写したように、見えないだろうか。

#87 白一面の広場
(前略)
(次第にスローモーションになる)
そして、何やら叫びながら雪をかきまわし、つかんでは投げ、地面の上で暴れ狂う。
雪けむりがもうもうと舞い、少年の動作は、あやしい踊りのように美しく、又、鬼気をはらんで、そして悲しい。

大島渚は1年かけて実際に事件の起きた土地でロケを行っているので、あまり文句は言いたくないが、もう少し素直に叙情的に撮ってほしかったな。林光の音楽も多分子供の玩具の木製のピアノを使ったりして実験的だけど、いつものような流麗な叙情性は敢えて避けている。大島渚の演出も同様で、例えば同じシナリオを野村芳太郎が撮れば、もっと痛ましい叙情的な作品に仕上がっただろう。大島渚は基本的にフィックスで長回しの人なのだが、ちゃんとカット割ってほしいよね。

■少年を演じる阿部哲夫は実際に孤児で、この映画の後、養子に欲しいとか映画に出てほしいとの声も出たらしいが、自ら元の施設に戻ったという。その後どんな人生を送っているかは不明。実際の事件で当たり屋をさせられた少年は現在、65歳を超えているはずだが、事件後、父も継母も、さらには弟も、早くに亡くしたと聞く。

補遺

■と書いていたら、以下の通り、阿部哲夫少年の現在の消息が明らかになっていた!良かったね、ホントに良かった!
eiga.com

チャカはわしの零戦じゃけえ!『仁義なき戦い 広島死闘篇』

基本情報

仁義なき戦い 広島死闘篇 ★★★
1973 スコープサイズ 100分 @DVD
原作:飯干晃一 脚本:笠原和夫 撮影:吉田貞次 照明:中山治雄 美術:吉村晟 音楽:津島利章 監督:深作欣二

感想

■広島やくざ戦争の史実に取材した仁義なき戦いシリーズの第二弾で、番外編的な扱いながら評価が高い一作。他の作品はあまり完結しないので、本作は独立して完結しているから評価しやすい面もある。戦時中、特攻兵になることを夢見て果たせなかったヤクザが戦後、チャカはわしの零戦じゃと言いながら、村岡組に所属して敵対する大友一家を殲滅しようとするが、村岡組長の姪で戦争未亡人である娘と愛し合ったために、村岡組長に罠にはめられることになる。

■千葉ちゃんが大暴れする大友勝利の人間像とか下品な台詞が大受けするのは無理もなくて、深作監督の世代的にも戦後世代に肩入れする立場だし、やりたい放題やらせて、最も目立っているし、確かに痛快。一方、北大路演じる山中はいまひとつピンとこない。単なる殺人狂でもないし、結局は年重の親分にいいようにされて殺す必要のない兄貴分を殺してしまい、四面楚歌で自殺する。そこにはあまり感情移入の余地がない。

■北大路と懇ろになるのが梶芽衣子だけど、特攻隊員の未亡人という設定だけが語られるが、それ以上の表現の工夫がない。本来は組長も含めて被差別部落の出身という設定を笠原和夫は考えていたけど、当時は部落解放同盟などの暴力的糾弾が活発だった時期なので、断念したという。今井正の『橋のない川』第二部に対する解同の上映妨害事件が映画関係者のトラウマになっていた時期で、山本薩夫ですら『戦争と人間 完結編』では映倫に事前にアドバイスされて被差別部落出身の兵士の設定を改変したくらいだから。といいながら、広島の”原爆スラム”でヤクザ同士の下品な大喧嘩をロケ撮影してしまうのだから、さすが東映の闇は深い。

■ひょっとすると、山中も被差別部落の出身なので、姪は部落外の人間にしか遣れないといった村岡組長の屈折した心理が二人を引き裂くような構想だったのだろうか。確かにその方が心理的なテーマは明確になるが、完全にメロドラマだな。個人的には好物だけど、さすがに時期的に困難だろうな。

■基本的に東映は男優中心主義で、配役には一番力を入れており、大物俳優が無駄に揃う。俳優のギャラが決まってから美術予算が決まるという、普通の映画会社とは逆の発想なのだ。本作も小池朝雄なんて、日活の「泥だらけの純情」や「夜霧のブルース」でヤクザものをあれだけ丁寧に演じていたのに、本作の雑な扱いは勿体ないかぎりだ。千葉ちゃんの父親役の加藤嘉なんて、そもそも端役だが、よく出たね。後に加藤嘉篠田三郎に「大日本帝国」みたいな映画には出ちゃいけないよと『ふるさと』で共演した際に諭したのだが、同じ脚本家でも「仁義なき戦い」は良くて「大日本帝国」は駄目という基準はなんだろう?

参考

笠原和夫はもはや映画偉人ですね。

小池朝雄東映時代に片っ端から出まくりましたよね。純粋な端役でも嫌がらずに出た。それ以前の日活時代は小さい役でも丁寧に演じ、大切に撮影された。
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp
加藤嘉といえば、これ『ふるさと』でしょう。
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被差別部落について正面から描くのは、この当時相当な覚悟と政治力が必要だった。うかつに手を出すと行き過ぎた反差別運動(糾弾)の見せしめとなって社会的に抹殺されることも少なくなかった。今井正だからここまでできた。
maricozy.hatenablog.jp
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山本薩夫はけっこう妥協してしまうのだ。
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篠田三郎の代表作ですね。何度見ても何らかの教訓を得られる傑作です。
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お前ら!それでも仲間なのか!?『仲間たち』

仲間たち

仲間たち

  • メディア: Prime Video

基本情報

仲間たち ★★★☆
1964 スコープサイズ 93分 @DVD
企画:笹井英男 脚本:中島丈博吉田憲二 撮影:峰重義 照明:安藤真之介 美術:横尾嘉良 音楽:遠藤実 監督:柳瀬観

感想

Updated 2021.03.25
ブルーカラーの街、川崎のトラックの運転手は自分のトラックを買うことを夢見るが、過重労働のせいで事故を起こして手首を骨折する。自暴自棄になる彼に、恋人はわたしに何ができるの?と問いかける。。。

浜田光夫が主演で実に気持ちよさそうに好演。松原智恵子も、舐めてたけど、なかなかの魅力だ。そして、舟木一夫だ。浜田の親友で餃子づくりの名人、浜田と松原の恋を相談相手として援助してやる気持ちのいい兄貴分。

浜田光夫が会社を首になりそうになり、餞別をどうしようかと相談する会社の同僚たちに、「帰れ、お前らに食わせる餃子はねえ!餞別のことしか考えることないのか。お前ら、仲間なんだろ!」と意見する場面が本作のクライマックスで、これ以上ないというくらいに役得な脇役だ。実に、泣かせる名場面なのだ。本作での舟木はキアヌ・リーブス並に底抜けにいい人なのだ。

■さすがに脚本を中島丈博が書いているだけあって、実にしっかりした脚本で、昭和39年の労働問題を下敷きに、助け合って生きていくことの大切さを衒いなく訴えかける秀作だ。トラック運転手の仲間には内藤武敏藤竜也(新人)がおり、内藤は在日の役で、故郷の韓国に還ることを夢見るおじさんだ。川崎コンビナートで燃えつづける煙突の炎が象徴的に使われる。まだ公害問題が表面化する前の長閑な時代なのだ。

■撮影は名手の峰重義で、松原智恵子のアップに移動車で急速接近するドリー・インのカットがいくつかあって、ものすごい迫力なので、ちょっとびっくりする。撮られる方もきっと怖かっただろうな。巨大なキャメラが、ものすごいスピードで顔面すれすれまで直進してくるのだ!
www.nikkatsu.com


参考

約60年前、舟木一夫は、みんなの兄貴だったのだ!
maricozy.hatenablog.jp
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金はあるが認知はせんぞ。暴走する傲慢特急!『傷だらけの山河』

※この画像はamazon様からお借りしました。

基本情報

傷だらけの山河 ★★★☆
1964 スコープサイズ 152分 @VHS
原作:石川達三 脚本:新藤兼人 撮影:小林節雄 照明:泉正蔵 美術:間野重雄 音楽:池野成 監督:山本薩夫

感想

■スクリーンでもビデオソフトでも何度も観ている本作ですが、あまりに昔すぎて記事が残っていないので、久しぶりに再見してみました。引っ越しの荷物の中にビデオソフトが残っていたのですね。

もともとは吉村公三郎が撮る予定新藤兼人が脚本を書いていたのに、吉村が急病のため山本薩夫にお鉢が回ってきた企画。そのため脚本がヤマサツの意に満たず、脚本の改定が必要になり、主人公の強引な事業の進め方や考え方が補強されたらしい。確かに、このお話って、改めて見ると一種の母もの映画の変形で、正妻+妾4人で、それぞれに子がある(若尾文子除く)という設定で、それぞれの子の立場から事業家有馬に対する非難が加えられ、母に対する愛憎が絡みつくのだ。このあたりは確かに新藤兼人の得意そうな部分で、ヤマサツはもっと強欲資本主義の理論や機構を描きこみたいと考えたようだ。

宮古とく子の証言によれば、メロドラマっぽかったから一旦断ったけど、大映から脚本は変えていいと言われて引き受けたという経緯がある。ただ、ヤマサツ先生は大物脚本家とは直接議論をしない主義で、製作者を介して注文したために、新藤兼人とは揉めたらしい。大映新藤兼人に断らずに勝手に変えていいと言ったようだ。プロデューサーの伊藤武郎によれば「後半を書き直して、三分の二増やして、アタマのほうを少し削った」そうだが、実際に元々の脚本に対してどんな改定がなさされたのか、興味を引くところだ。

■しかも、本作の主演はなぜかオペラ歌手の藤原義江が決定されており、クラインクインしたが演技に満足がいかず、永田雅一に直訴して、運良くスケジュールが調整できた山村聡に交代して完成させている。素人を主役に使いたいという謎の願望が、どこからどうして湧いてくるのか実に不思議な邦画界と特有の(?)現象だが、黒澤明も『トラ・トラ・トラ』で大失敗を喫しているわけで、一体誰に成算があったのかね。

■しかし完成した映画は実に面白く、観始めると途中で止められない。既に3、4回は観てるのにだ。西北グループ総裁の有馬勝平の豪快な事業理念に感心しつつも呆れ、用地買収や鉄道敷設のあくどいカラクリを詳らかにするあたりはヤマサツ先生ならではの面白さ。この原作ならこういう部分が面白いのだから、これを描かないと観客は納得しないだろ!という読みがヤマサツ先生の大衆性の所以。

■ちなみに有馬勝平のモデルは西武グループ創始者堤康次郎ですね。おそらく公開当時はそうしたスキャンダラスな話題性も興行価値に寄与したものと思われるけど、今現在、モデル云々を除いて虚心坦懐に観ても、十分すぎるほど面白い。

■一方、正妻+妾の成長した子供たちの反抗が本作のメインテーマで、これを正妻側が北原義郎、船越英二高橋幸治、妾側が川畑愛光、伊藤孝雄らが熱演する。なかでも父親である山村聡若尾文子を巡って三角関係になってしまう高橋幸治のメロドラマが本作の中心線となる。物語を腑分けしてゆくと、このエピソードが本作の背骨なのだ。だから、基本的にメロドラマであって、新藤兼人の得意ジャンルであるし、松竹出身のヤマサツ先生だってお手の物なのだ。

■そして、この映画を観ている観客は当然豪腕の大事業家ではなく、その批判者であったり被害者である息子たちに自分自身との親近感を抱くようになっている。自殺者まで出すデパートの立ち退き工作をさせられて神経を病んで精神病院に入院してしまう繊細で小心な高橋幸治は、どう転んでも大事業家にはなれそうもない凡人たるわれわれ自身を映す鏡であって、人を人とも思わない大言壮語を次々に実現してしまう大事業家の強烈な高熱に焼き尽くされる青春の無残さ、その悲劇性が本作のテーマなのだ。ただ、高橋幸治が持ち前の人間離れした個性で完全に演じあげてしまうので、逆に喜劇のように見えてしまうという矛盾は否定できず、本作の評価もそこで分かれる危惧がある。でも、面白さは保証付きなので、ヤマサツ先生は人が悪い。

■短期間しか活躍しなかった川畑愛光という役者も実に面白い個性で、生硬な若者の姿を案外リアルに描いている。これも典型的な生活力の無い、”覇気のない”若者で、大学卒業後は詩を書いて暮らしたいなどと言うダメな奴なのだが、僕は家を出ていくよと弱々しく宣言した夜、今夜は一緒に寝ておくれと、従順な妾である母が擦り寄る場面など、古臭いメロドラマであはあるが、歳をとって今見るとちょっと泣けるものがあるな。このあたりをちゃんと撮ってくれるのもヤマサツ先生の観客への親切心だ。

■一方、簡潔に挿入される用地部長のエピソードがサラリーマン残酷物語で、課長から抜擢されて部長になって頑張ってこいと送り出されたが、家には知的障害のある娘があり、妻と姑は折り合いが悪く、アパート代を工面するために会社の金を私的流用するが、母娘は出奔して無理心中してしまう。経理不正が発覚しそうになると電車に身を投げる。まるでここだけ黒のシリーズのような高松英郎の一人舞台だ。

■ただせっかくの若尾文子があまり生かされず、ドラマの中心にもなっていない。ああ、勿体ない。それに、あのボサボサの変な髪形はなに?

■一応、大映東京の精鋭スタッフを揃えたが、スケジュール的にも厳しかったらしく、画調の乱れが多いのが気になる。若尾文子は基本的にハレーション気味に顔色が白く飛んでいるし、特に白昼のロケーション場面の白っぽさはさすがに安っぽい。小林節雄らしくシャープで黒っぽい質感の場面もあるが、例えば同時期の日活では姫田真佐久のモノクロ撮影が絶品だったし、大映京都の牧浦地志や森田富士郎らの映像作りの密度と安定感にはどうしても劣る。クランクイン前後にゴタゴタした影響で、突貫撮影だったことだろうと推察される。山村聡なんて、無理やり空きスケジュールを作ったわけだろうし。でも山村聡の演技としては明らかに代表作で、これだけの大人物感を演じたのは、後年の丹波哲郎くらいだろう。滝沢修なんて、主役をやらないからね。

■そして、本作の興行的成功と高評価は群像劇に対するヤマサツ先生の自信を深めたし、次なる大作『白い巨塔』の企画を呼び込む運気を招いたわけだ。なにしろ本来は増村保造が撮るはずだった好企画(かつ難企画)が転がり込んできたわけだからね。

実は貧困と差別を描く社会派アイドル映画!?百恵&友和の『伊豆の踊子』

基本情報

伊豆の踊子 ★★★
1974 スコープサイズ 82分 @NHKBS
原作:川端康成 脚本:若杉光夫 撮影:萩原憲司 照明:高島正博 美術:佐谷晃能 音楽:高田弘 監督:西河克己

感想

東宝の正月映画で『エスパイ』と同時公開された本作ですが、実はちゃんと観たのは初めての気がします。当時からなんとなくバカにしてましたからね。アイドル映画だし、監督がお年寄りだし、スタッフは東宝ではなく旧日活の面々だし、なんだか食指が動かないなあという感じの人は、少数ながら存在したはず。それに、『エスパイ』は怪獣も天変地異も無いので子どもにはアピールしなかったよ。せめて藤岡弘が変身すればねえ。(何に?)

■そのまま四十数年の時間が流れ、実は今見ると、なかなか味わい深いものがある。ことに西河監督が以前に撮った小百合版『伊豆の踊子』と比較すると興味深く観ることができる。日活版『伊豆の踊子』は吉永小百合じしんも色々と意見も言ったけど、反映されず残念だったと述べているように、西河克己としても決してできの良い映画ではなかった。

■一方、本作では脚本を劇団民藝系統の日活人材、若杉光夫が書いていて、前作での失敗点をかなり克服している。特に大きいのは、中盤の湯ヶ野で出会う酌婦おきみのエピソードである。前作では主人公とは直接何の関係もない現地で触れ合う不幸な娘だったが、本作では同郷の娘で、湯ヶ野で働いていると聞いて再開を楽しみにしているという設定になっており、このあたりがドラマの芯棒となっている。おきみは酌婦として働きながら実際は娼婦であり、年若くして肺病を病み、雇い主からは見捨てられ、廃屋で死を待つだけの身の上である。大正期の我が国の最底辺に生きる庶民の姿であり、流しの旅芸人である踊子かおるがいずれ辿り、堕ちてゆく自分じしんの残酷な未来の姿でもある。そのことを前作よりも明確に描いている。若杉光夫は京大法科出身でレッド・パージを経験して劇団民藝へ入ったガチガチの古典的左翼なので、テーマにブレがなく、芯が通っているわけですね。

■社会の最底辺に生きる漂泊民、非定住民への差別感情は特に強調されていて、茶屋の婆さん浦辺粂子があんな流れ者と関わるとろくなことにならないという台詞をラストの別れの場面でリフレインして聞かせる、前作ではなかった工夫が施されている。前作はラストあたりの腰砕け感が非常に残念だったが、本作は明確に被差別の民に対する視線が明確にテーマとなっていて、主人公であるわたしにそのことがちゃんと届いている描きかたになっている。だからラストカットの、下品な宴会で入れ墨者に抱きつかれながら、感情を押し殺して舞っている無残な踊子の姿が胸に迫り、ストップモーションが残酷に刻印される。

西河克己としてはお得意の喜劇要素も安定したテクニックでほんとに名人芸だし、前作では何故かステージ撮影してしまった山の頂上の場面もちゃんとロケ撮影で効果満点だし、確実に演出がブラッシュアップしている。前作では井上昭文が演じた紙屋を三遊亭小圓遊がいやらしく演じるのも妙味があるなあ。前作では冒頭とラストに無理やり登場した宇野重吉がナレーションなのも的確。音楽が70年代らしく清心なタッチなのも効果大だった。いや、ほんとに舐めてたけど、結構大した映画ですよ。

意外と平凡な犯罪ノワール『地獄の曲り角』

基本情報

地獄の曲り角 ★★☆
1959 スコープサイズ 93分 
企画:大塚和 原作:藤原審爾 脚本:馬場当山田信夫 撮影:間宮義雄 照明:高島正博 美術:千葉一彦 音楽:真鍋理一郎 監督:蔵原惟繕

感想

■一攫千金を夢見るホテルのボーイは、ホテルの部屋で盗み撮りをして脅迫する手口を思いつき、小金を手にすると、汚職事件の証拠書類を入手して大金を脅し取ろうと画策する。。。

蔵原惟繕裕次郎の『俺は待ってるぜ』で監督デビューして、作品のできも妙に良かったのに、その後結構小品を撮らされている。『ある脅迫』なんかもそうだし、石原慎太郎原作のフカ女が登場する幻想映画『海底から来た女』(観たい!)もそうだし、本作もそのジャンル。

■主演は葉山良二だし、ヒロインは稲垣美穂子で、両者ともパッとしないし、演技的にも明らかに未熟。典型的な犯罪ノワールだけど、ホントに典型的なお話なので斬新さがない。悪女を演じる南田洋子と葉山の相方を演じる大泉滉がちょっといい味を出しているけど、それ以上の魅力がない。こうしたノワールだと、むしろ同時期の東宝の暗黒街ものの方が清新だ。

■感覚派と言われる蔵原惟繕だが、本作を観る限り、全然そんな気配がなく、冴えたところがない。どんな思いで撮っていたのかなあ。
www.nikkatsu.com

参考

maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp
『海底から来た女』は石原慎太郎の有名な怪奇小説が原作で、怪奇鱶女が登場するのだ!どうです、観たいでしょう?
www.nikkatsu.com
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maricozy.hatenablog.jp
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超エリートと漂泊の旅芸人の純愛に関する一考察?『伊豆の踊子』

基本情報

伊豆の踊子 ★★
1963 スコープサイズ 87分 @DVD
原作:川端康成 脚本:三木克巳西河克己 撮影:横山実 照明:河野愛三 美術:佐谷晃能 音楽:池田正義 監督:西河克己

感想

■実は「伊豆の踊子」の映画化は初めて観るのだが、これ一体ドラマなんでしょうか?大正年間、超エリートの一高生がふらり伊豆旅行中に旅芸人の一行と出会い、その中の若い娘に淡い恋心をいだかれるが学問のため東京に戻るというさらっとしたエッセイ風の物語で、いわゆるドラマ的なドラマは存在しない。旅芸人の一座が社会底辺層の芸人で、村人たちからも差別され、蔑まれる様をちゃんと描きながら、それによって、主人公に何か変化が生じたわけでもない。主人公が変化しないとドラマにならないのに。

■特に湯ヶ野の場面では、現地の住民たちからも差別される現地の酌婦たちの最底辺の暮らしぶりをかなり描きこんでいて、南田洋子に、いずれお前のこのざまだよと言わせて、漂泊の旅芸人たちの行く末を暗示させる。十朱幸代が病を得ても死の寸前までお客を取らされる残酷物語が語られ、誰にも看取られず、葬儀もなく棺桶に入れられる様を諸行無常の体で描くのだが、そこは主人公には直接絡まないという変な塩梅。主人公たちが下田に旅立とうとしている間際にも、彼らとは何の関係もないエピソードとして、ピンハネがひどいから親方を通さず竹林で客を取っている南田洋子のみすぼらしい姿が描かれるが、主人公たちはそのことも知らない。。。

■全体にドラマの核心がどこにあるのか不明瞭で、純愛映画だから、一瞬淡い恋心が通えばそれで成立するのだという自信に基づいた映画化ということだろうか。三木克巳井手俊郎)の勝算はどのあたりにあったのだろうか。中盤の湯ヶ野の場面がこってり描けたからそれで満足ということだったのだろうか。実際、この第二幕の部分は配役も桂小金治井上昭文といったおなじみのバイプレーヤーたちがきっちりと芸を見せるし、大坂志郎も良い味なのだ。

■冒頭とラストにモノクロ撮影で、主人公の何十年後を宇野重吉が演じ、現在の学生を小百合と浜田光夫が演じるのだが、これも積極的な意味が見いだせず、蛇足に見える。ラストの下田港での別れの場面も、ロケ当日波風が強かったらしく、あまりキレイな撮影にはなっていない。リマスターは非常に綺麗にできているのだが、オリジナルの撮影に限界が感じられる。

■どうも西河克己監督は、時代がかったものは、あまり得意ではない気がするなあ。今の処、喜劇タッチの映画は非常にできが良いことを確認済みなのだが。実は舟木一夫の純愛映画も興味津々なのだが、あっちは当然真面目一辺倒な純愛映画だろうから、さて面白いのかなあ?
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”伏線”は回収しない主義!『巨大目玉の怪獣 トロレンバーグの恐怖』

基本情報

The Trollenberg Terror ★☆
1958 ヴィスタサイズ 87分 @DVD

感想

■スイスのトロレンバーグ山で謎の遭難事故が発生、何者かに引き寄せられるように読心術の姉妹が駅に降り立つ。トロレンバーグ山には謎の動かない雲が発生し、その観測基地があった。その後山に入った登山隊も連絡が途絶え、捜索隊が入山するが、、、トロレンバーグに何があるのか、トロレンバーグで何が起こっているのか!?
■という怪奇映画タッチのSF映画で、英国映画なので、脚本をジミー・サングスターが書いている。もともとラジオドラマがあって、それを映画化したらしいが、お話の設定とか道具立てがなかなか魅力的で、テレパシー能力を持つ若い娘とか、ここで起こっていることは昔アンデスで起こった事件とそっくりだと語りだす国連の科学者とか、山腹で放射線を放ちながら微動だにしない雲の存在とか、首をもがれた死体とか、死んだはずの男が霊能力者を殺しに来たりとか、もう面白そうな道具立て満載で、特に優れた演出ではないものの、一応サスペンスが効いているから、一体最終的にどう風呂敷をたたむのかと第二幕までは相当ワクワクする。
■ところが、第三幕が酷くて、具体的には書きませんが、近年こんなにがっかりした映画はなかった。というくらいに腰砕け。最後にはアレが出てきて、これがまた相当グロテスクなので凄いといえば凄いけど、ミニチュア特撮がほとんどアマチュアの8ミリ映画レベル。昔の学生映画レベルの撮影なので、ぶち壊し。ちょっと褒めるとすれば、スペクトルマン宇宙猿人ゴリ)のヘドロンのあのスケール感がちょうどそっくり。(褒めてないか)ドラマとしては、すべての”謎”を豪快に投げっぱなしにして、「もう雲はこりごりだ」で幕を引く。
■ちなみに、コレどうなるのと興味を引く第一幕の「謎」要素は、正確には「伏線」とは呼びません。ちっとも伏せてないからですね。「謎」を明示して興味を引くのは一種のフックなので、最終的に劇的に消化されても、それは「伏線」ではないのです。「謎」に対して用意されるのは「謎解き」ですね。近年誤用が多いので、以下の通り、名著から引用しておきましょう。

一方伏線というのは、安田清夫著「映画脚本構成論」によると「一つの事件、事実が起きるときに、その事件が起こるのを暗示するようなきっかけを、前もって、それとなく用意しておくこと」である。
舟橋和郎『シナリオ作法四十八章』191頁

「謎」は意識させて興味を惹かないといけないけど、「伏線」は意識させてはいけない、それとなく配置する、こっそりした仕掛けなのです。

涙でスクリーンが見えない!明治初恋残酷物語『野菊の墓』

画像は、amazonさんからお借りしていますよ。

基本情報

野菊の墓 ★★★★
1981 ヴィスタサイズ 91分 @NHKBS2
原作:伊藤左千夫 脚本:宮内婦貴子 撮影:森田富士郎 照明:梅谷茂 美術:桑名忠之 音楽:菊池俊輔 監督:澤井信一郎

感想

■明治30年頃、つまり日清戦争日露戦争の間の時代、千葉の矢切で醤油の醸造業を営む旧家の15歳の跡取り息子政夫と、いとこの少女民子17歳の幼い恋心が、旧家の因習や世間体によって引き裂かれ、迫りくる軍国主義の時代に押しつぶされるまでを、ここまで泣かせるかという演出で綴る澤井信一郎の監督デビュー作にして傑作。もちろん木下恵介の『野菊の如き君なりき』も映画史に残る号泣映画で、”涙でスクリーンが見えません!”状態だけど、本作の泣かせ方も念入りなのだ。

■この映画を観るのも3度目か4度目だけど、これ東映映画じゃないよね。明らかに目指しているのは日活映画。純愛路線で一世を風靡した60年代の日活映画の世界が何故かここに再現されている。

■しかも、監督デビュー作に旧大映から森田富士郎を呼んでくる。どんなツテで森田富士郎に依頼したのかは知らないが、コテコテの理系技術系でありながら、感覚的な撮影も上手い森田キャメラマンの変幻自在で柔軟なテクニックが、時代がかった、しかも叙情的な映画を支えきっている。前半は季節感の関係もあり、妙に照明が明るくて調子が狂うのだが、後半の冬場に入るといつもの大映京都タッチの照明設計で、画調がどっしりとしてくる。もちろん、加藤治子の部屋の石油(?)ランプをキーライトにした照明効果など影の出方も大映京都メソッドそのもの。

■やたらと菊池俊輔の泣かせ音楽が繰り返されるのも気にはなるが、時代背景が、人間関係がもう哀しさ一色なので、次第に気にならなくなる。そして、TBSのドラマからそのまま抜け出してきたような役柄の樹木希林。政夫の学校で、ご大家のやりかたに愛想が尽きましたと吐露する場面から、民子の嫁入り行列に乱入する場面までがクライマックスで、今回改めて気づいたのは、嫁入り行列と中学校の騎馬戦(?)のカットバックの意図。競技ではあるんだけど、これは一種の軍事教練であって、組がぶつかり合う撮り方はまるで戦争映画のように荒々しい。軍人の家に嫁に入る民子と軍国主義の教育を受ける政夫。それが当時の時代背景であるが、単に背景ではなく、明治という富国強兵・軍国主義、家父長制の時代そのものが二人の未来に立ち塞がっていることが示される。つまり、陽の当たるエリートたちの正史『坂の上の雲』の裏面を描いた庶民の明治映画であって、『あゝ野麦峠』の兄弟映画なのだ。そして、前年に大ヒットして東映を潤した『二百三高地』の前史でもあるのだ。

■なぜか映画では目立った作品がない大ベテラン加藤治子は代表作になったし、お前の監督デビュー作には出てやるからなと言った約束を守ったに違いない丹波哲郎の特別出演も楽しい。しかもあの瞽女さんを演じるのは叶和貴子ではないか。

■木下版笠智衆大映の富本壮吉版は宇野重吉ときたので、どうするかと思えば本作は島田正吾が政夫老人を演じる。せっかく島田正吾を呼んできたのだから、最後にその後の自分の人生を振り返るナレーションなどがあっても良かったはずなんだけどね。何度か戦争もあった、結婚もしたが不本意なものだった、子供も戦争で喪った、といった明治から昭和にかけての男の半生を感じさせるほうがテーマがより鮮明になっただろうに。元々の脚本にはあったけど割愛されたかもしれないけどね。せっかくの島田正吾なんだからね。(まあ、当時のメイン観客にはこのおじいさん誰?って感じだろうから仕方ないか)

付記:企画開発の経緯

■この映画については、Wikipediaに企画開発の顛末の詳細が纏められていて、非常に参考になる。脚本はほとんど澤井信一郎が書き直したらしいし、森田富士郎の参加は、吉田喜重の幻の映画『侍・イン・メキシコ』が中止されたことから、吉田達プロデューサーが呼んできたらしい。企画開発の中心は吉田達であったことがよくわかる。最初に市川崑に話を持っていって断られるあたりの挿話は爆笑だな。

■脚本に宮内婦貴子を呼んできたのは、もともと日活映画のイメージが頭にあり、日活出身だからかなと想像していたのだが、山口百恵の『風立ちぬ』を書いていたから、とのこと。まあ、東宝の百恵映画は実質的に日活映画の系譜だから、イメージとしては日活映画があったことには違いないだろう。
野菊の墓 (映画) - Wikipedia

付録:木下惠介の傑作『野菊の如き君なりき』について

木下恵介の『野菊の如き君なりき』はもちろん、2、3回観ている。高校生時代に、古臭くて、辛気臭い、暗い映画だろうから観たくもないけど、日本映画史上は有名作だから勉強のためと思って観てみたら、号泣させられた記憶がある。その後、再見してもやはり凄い映画だと感じる。誰も木下恵介のコピーはできないんだな。

■極めつけが以下の浦辺粂子の台詞。もちろん映画のオリジナル部分で、木下恵介が書いた台詞。杉村春子に泣く泣く他家への嫁入りを納得させられて消え入りそうな民子に祖母が声をかけるシーン。確か木下恵介は階段で立ち止まる民子の足元を映すんだな。このあたりの演出、映像構成も凄いんだ。もちろん役者は淡々と演じるけど、観客は民子にも感情移入するし、祖母の人生をも想像して大いに泣かされる。

「民子、政夫のことは忘れるんだな、わしがようく知ってるからな。」

から始まって、浦辺粂子の名演が続く。

「あああ、めでたいよ、めでたいよ。
だけどな、みんなも聞いとけなあ。
わしは今年六十になったけどな、六十年、生きてきた間で何が一番嬉しかったかと言うとな、死んだおじいさんと一緒になれたときぐらい、こんな嬉しかったことはなかったもんな。
わしはそれだけでもこの世に出てきてよかったと思っとるわ。
他のことなんざ、あってもなくても、どうでもよかったんじゃ。」

浦辺粂子の名調子を思い出すだけで泣けてくる名シーン。当然子どももできたわけで、普通なら子ども、特に長男を授かったことが幸せで仕方ないというのがこの時代の母の人情だと思われるのに、その意味ではこの時代における女性の想いとしては不自然なのかもしれないが、いやそうした時代背景だからこそ純粋に好きあって結ばれる、ただそれだけのことが人生の最大の幸福だと考える。

■明治の軍国主義、家父長主義の時代において、長男の誕生も、戦争に勝ったことも、「あってもなくても、どうでもよかったんじゃ」と言い切る、アナーキーともいえるこの思想の表明は、いかにも木下恵介の真髄といえる。今のところ『野菊の如き君なりき』は独立した記事がないので、こちらに名台詞を残しておきたい。

参考

東映が社運をかけ、「いま”明治”が熱い」という謎の信念で大ヒットしたのが舛田利雄の『二百三高地』。戦地に出兵したかどうかはともかく、『野菊の墓』の政夫も当然なんらかの形で日露戦争に関わっていただろう。
maricozy.hatenablog.jp
社運をかけなくてもNHKならこんな超大作が作れてしまうという、顎が外れそうな超大作。日本が『坂の上の雲』を目指して富国強兵政策をすすめるなか、地方の庶民はどんな思いで市井の暮らしを営んでいたか、それが『野菊の墓』のテーマだ。

明治、大正時代の女工哀史天皇を頂点とする謎の神話に基づく家父長制の時代、庶民の暮らしぶりのリアルを描く。
maricozy.hatenablog.jp
もうひとつの『野菊の墓』かも。姉妹作のように似た映画で、忘れられた骨太の秀作『からたちの花』
maricozy.hatenablog.jp

異議あり!自己主張する川口の子どもたち!『キューポラのある街』

基本情報

キューポラのある街 ★★★☆
1962 スコープサイズ 100分 @amazonプライム・ビデオ
原作:早船ちよ 脚本:今村昌平浦山桐郎 撮影:姫田真左久 照明:岩木保夫 美術:中村公彦 特殊技術:金田啓治 音楽:黛敏郎 監督:浦山桐郎

あらすじ

■鋳物工場が集まる川口市、鋳物職人の父が工場を頸になり、やっと決まった再就職口をしくじったとき、頑張って普通高校に進学しようとしていたジュン(吉永小百合)の心は折れそうになる。修学旅行にも行けず、不良の餌食になりそうになってしまう。一方弟のタカユキ(市川好郎)は悪ガキだが、悪友の朝鮮人の子サンキチの一家が北朝鮮に帰る決心をすると、別れの覚悟を決める。。。

感想

浦山桐郎の監督デビュー作で、一見小百合&光夫のコンビ映画に見えるが、実際は浜田光夫は脇役の一人で、実質の主役は小百合と弟役の市川好郎である。つまり、日活名物青春映画ではなく、むしろ児童映画に近い。その点、川島組の兄弟子の今村昌平が撮った『にあんちゃん』に似ているかもしれない。本作は弟弟子の監督デビューのために今村が脚本を書いている。鬼のイマヘイ、蛇のウラ公と呼ばれて恐れられた助監督コンビだったらしい。ひょっとすると、ジュンとタカユキの関係には、今村と浦山の関係が反映されているのかもしれない。いや、タカユキとサンキチか?

■映画の前半、主役のジュンは中学生で15歳だが、まだ初潮を迎えていない。父親の東野英治郎が、娘たちが在日の子と付き合っているのを聞いて、朝鮮人の子とは付き合うな!と怒るのに対してすぐさま、朝鮮人だから何が悪いのよ!と反論するのがジュンのキャラクターで、吉永小百合の実像に近い役柄であったらしい。さらに東野英治郎が、戦争でも起これば炉は吹きっぱなしだとつい本音を口走ると、自己中心主義!と間髪入れず猛烈に反駁する。この瞬間湯沸かし器のような率直な意思表明や怒りの表出が60年代の吉永小百合のパブリック・イメージであり、多くの若い学生や労働者に支持されたわけだ。

■ただ、当時今平が三十代半ば、浦山が三十代になりたての、新進気鋭だから、さすがに若書きの節はある。労働組合に対する無邪気な信頼感や北朝鮮への憧れ(?)とか。加藤武演じる教師の伝聞として語られる「一人が五歩進むより、十人が一歩ずつ進むほうがいいって。」という台詞とか。俺達にはまだ大人は描けないけど、子供たちならリアルに描けるぞという目論見があったのではないか。でも学芸会で「朝鮮にんじん」と野次られたサンキチのために野次った子どもにタカユキが制裁を加える場面などは、意外に演出的に冴えない気がするし、そもそも同時録音の都合上か、子どもたちの台詞がかなり聞き取りにくいのだ。

■今回再見して、サンキチのエピソードは、太田愛ウルトラマンダイナで書いた傑作『少年宇宙人』のルーツではないかと感じた。いや、あれを観たときに何かこれ前に見たことがあるなあと感じていたが、ああこの映画だったのだ。タカユキは、日本人である母親と別れ、父親の故郷である朝鮮に還ることに躊躇するが、悪友たちに励まされながらついに受け入れる。「少年宇宙人」のサトル少年は友達たちに送られてもなお宇宙に還ることや自分の未来に不安を覚える。そしてダイナに励まされ導かれて、新しい未来に旅立つ。この、未知の未来へ旅立つ少年のエピソードは実際のところ「少年宇宙人」のほうが成功しているよね。

■姫田キャメラマンの仕事としては、後年の作品に比べると撮影的な冒険は少なく、オーソドックスに撮られているが、ロケメインのモノクロ撮影は精細で絶品。確かに、いかにも照明を仕込んだ感じのカットも或るが、ナイトシーンはちゃんと夜に撮っているし、学校の校庭も書き割りではない。例えば同じモノクロワイドでも、大映だともっとコントラストを強く現像して、黒が大いルックになるが、グレートーンが豊かななめらかなモノクロ映像なのだ。今平組でのオール・ロケ、オール・シンクロ撮影の冒険を経て、姫田真左久のスタイルも変化し、『愛と死の記録』ではもっと柔軟にキャメラが動くし、大胆になってゆく。

■おまけに、浦山監督の演出は今平とか神代などの軟体的なスタイルではなく、非常にオーソドックスで、カット割りも積極的に行う。まるで岡本喜八のようなカット繋ぎもあり、驚かされる。

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